広島県三原市の山中にかつて存在した糸崎病院。結核療養所として多くの患者を受け入れていたこの病院は、廃墟となってから数々の不可解な現象が語られ、「広島県最恐」と噂される心霊スポットとなった。今回は、糸崎病院にまつわるウワサの心霊話を紹介する。
糸崎病院とは?

糸崎病院は、広島県三原市糸崎に存在したかつての結核療養施設である。正式名称は「糸崎療病院」、後には「日赤糸崎療養所」とも呼ばれた。
明治末期、糸崎神社から尾道方向へ約400メートル、山の中腹に建てられた木造の病棟が始まりとされる。
1925年(大正14年)、日本赤十字社広島支部が同地を取得し、1931年(昭和6年)には坂の上に本館(新館)が完成した。
この病院は瀬戸内海を望む絶好の立地に建てられ、結核という当時は不治の病とされた病に苦しむ患者たちのための最後の療養地として、多くの命を看取ってきた。
その閉院は1964年(昭和39年)、だが――この場所の終焉は、決して平穏なものではなかった。
糸崎病院の心霊現象
糸崎病院の心霊現象は、
- カルテを持ち帰った者に女の声で「私のカルテ返して」と電話がかかってくる
- 生首が浮遊しているのを複数人で目撃したという証言
- 廃墟となった病院内で高熱を発症するという体調異常
- 午前0時に海から霊が這い上がり、廃病院へと向かうという怪談
- 胎児のホルマリン漬けがあったという戦慄の目撃情報
である。以下、これらの怪異について記述する。
この病院には、何かが取り憑いていた――そうとしか思えない。
最も有名なのは、肝試しで病院に忍び込んだ若者たちがカルテを持ち出すという行為である。
軽い気持ちの悪戯のつもりだった。
しかしその後、持ち出した者の携帯電話にかかってきた一本の電話。
「私のカルテ、返して下さい」
女の声で、抑揚なく、機械的に。
震えながらカルテを元の場所に戻した彼は、その後連絡を絶った。
別の日、探索者たち5人が廃墟を訪れた際、彼らの前に現れたのは――浮遊する生首だった。
腐敗した女の顔、だが目ははっきりと開かれ、誰かを探すかのように虚空を漂っていたという。
また、廃病院を訪れた者の中には、突然原因不明の高熱に襲われ、数日間意識不明に陥った例もある。
病院跡には今も当時の遺物、注射器やガラス瓶が土中から姿を見せることがあるというが、それらに触れた者が同様の症状を示したという報告もある。
さらには、「午前0時になると海から霊が上がってくる」という噂も長年語られている。
夜の海から這い上がる亡霊たちは、山を登り、静まり返った廃病院へと消えていく――その目撃談は決して一人の妄想ではない。
糸崎病院の心霊体験談
「俺が大学を卒業する年だった。糸崎病院はまだ解体されていなかった。夜に友人たちと肝試しに行ったんだ。廃墟の中でふと振り返ると、そこに“生首”が浮かんでいた。女だった。首から下がない。みんな見た。5人全員で。そのあと誰もあの場所の話はしなくなった」
「知り合いがカルテを持ち帰ったって聞いて、最初は笑ってた。でも、その子にかかってきた電話の話を聞いて、もう笑えなかった。『私のカルテ返して』――その一言が、女の声で、はっきり聞こえたらしい。あまりの恐怖で、その子はすぐにカルテを元に戻しに行ったって…」
糸崎病院の心霊考察
糸崎病院に巣食う霊たちは、単なる伝説や都市伝説の域を越えているように感じられる。
まずこの地が“結核療養所”という、命の瀬戸際にある者たちが多く収容された施設であったという歴史が、負の念を蓄積するに十分な背景となっている。
さらに、精神病棟の存在、胎児のホルマリン漬けという凄惨な話までが加わり、その土地に染み付いた怨嗟は想像を絶する。
また、カルテという「個人の記録」が心霊現象と紐づいている点も見逃せない。
人の死と結びついた記録を軽んじる行為が、霊の怒りを招いたと考えるのが自然である。
「個」としての存在を無視された者が、霊となって尚も自己の存在を主張しているのだろう。
生首の出現、体調異常、電話――これらの現象が重なることは珍しくない。
多くの廃墟が単なる探索地に過ぎない中、糸崎病院は確かに“何か”が宿る場所であった。
すでに更地となった現在、その“何か”がどこへ去ったのかは不明である。
だが、残された遺物、語り継がれる声は、今も我々に語りかける。
「ここには、まだ終わっていないものがある」と――。
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