鹿児島市にある草牟田墓地――かつて西南戦争の火種となった陸軍火薬庫の跡地に造成されたこの場所には、今なお数多くの心霊現象が噂されている。歴史の闇に封じられた怒りや悲しみが、墓地の空気に溶け込むように漂っているという。今回は、草牟田墓地にまつわるウワサの心霊話を紹介する。
草牟田墓地(陸軍火薬庫跡)とは?
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鹿児島市草牟田に位置するこの墓地は、かつて明治初期に薩摩藩が設置した火薬庫の跡地に造成された場所である。
1871年の廃藩置県により火薬庫の管轄は陸軍に移り、国家の管理下に置かれることとなった。
しかし、時代は混迷を極めていた。
征韓論争に敗れた西郷隆盛が鹿児島へ帰郷すると、地元は急速に反政府的な空気に包まれる。
政府は鹿児島に保管されていた膨大な量の弾薬やスナイドル銃弾を危険視し、密かに船で大阪へ移送しようと画策する。
その動きを察知した私学校の生徒たちは激昂し、ついには火薬庫を襲撃。
1877年1月29日の夜、3人の生徒によって始まった襲撃は、翌日には1000人規模へと拡大し、事態は制御不能となる。
これを受け、西郷はついに熊本へと出兵し、西南戦争が勃発した。
現在、この地には石碑が静かに建っており、地表に遺構は見られないが、草牟田墓地の入り口および周辺に、その歴史の痕跡が刻まれている。
草牟田墓地(陸軍火薬庫跡)の心霊現象
草牟田墓地(陸軍火薬庫跡)の心霊現象は、
- 少年の霊が現れる
- 心霊写真が撮れる
- 霊が徘徊しているというウワサが絶えない
- 西南戦争に関与した者の怨念が今なお漂っている
である。以下、これらの怪異について記述する。
少年の霊が現れる
墓地の奥まった区画や、火薬庫跡付近で「軍服姿の少年の霊を見た」という証言が後を絶たない。
その少年は無言のままじっと立ち尽くし、時には足元からふっと消えるとされている。
特に夕暮れから夜半にかけての目撃が多く、地元住民の間では「西南戦争で命を落とした若き戦士の霊」と噂されている。
心霊写真が撮れる
観光や散策の目的でこの場所を訪れ、記念に写真を撮った者の中には「不自然な白い影」「誰もいないはずの場所に浮かぶ顔」など、説明のつかないものが写り込んでいたという報告がある。
その多くは墓地の入口近くや火薬庫跡の碑のあたりで撮影されたものとされ、心霊写真の名所としても知られつつある。
霊が徘徊しているというウワサ
夜間、この墓地に足を踏み入れた者の中には「背後を歩く足音がする」「墓石の間を人影がよぎる」などの現象を体験している。
霊感の強い者によると、「ここは眠れない霊たちが集まっている場所」だという。
強烈な念と怒りが、土地に染み込んでいるようである。
西南戦争に関与した者の怨念
この地で起きた火薬庫襲撃事件は、まさに西南戦争の引き金となった出来事であった。
多くの血が流れ、多くの命が奪われた戦争の始まりを刻んだこの場所には、深い怨念と未練が渦巻いているとされる。
そのためか、墓地全体に重苦しい空気が漂い、訪れる者の多くが「何かに見られているような」感覚を訴えている。
草牟田墓地(陸軍火薬庫跡)の心霊体験談
ある地元の男性が、夜間に肝試しのような気持ちで友人とこの墓地を訪れた際のことである。
彼らが入口近くの石碑の写真を撮った直後、スマートフォンの画面が急に真っ暗になった。
再起動後、写真を確認すると、画面の隅に明らかに人間の「手」のようなものが写っていたという。
しかし、その場には誰一人いなかった。
また別の女性は、昼間にひとりで墓参りに訪れた際、「小さな男の子の声で“帰って”と言われた」と語る。
周囲には誰もいなかった。
背筋が凍りつき、急いでその場を後にしたという。
草牟田墓地(陸軍火薬庫跡)の心霊考察
草牟田墓地の異様な霊的現象の根源は、単なる墓地というよりも、その地に刻まれた「戦の記憶」にあると考えられる。
明治政府の陰謀と、それに対する私学校生徒の怒り、そして爆発するように始まった西南戦争――。
この地は、近代日本史の激動の火種を孕んだ場所であると同時に、多くの若者の命と夢が砕け散った、言わば“呪われた戦場”でもあった。
墓地として整備された今でも、彼らの無念が霧のように漂っているのだろう。
少年の霊、心霊写真、徘徊する影――それらすべてが、草牟田という土地が決して“ただの墓地”ではないことを物語っている。
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