山口県に存在する脱隊諸士招魂の碑には、かつて処刑場であったという血塗られた歴史が残っており、現在もなお心霊のウワサが絶えない心霊スポットであるという。今回は、脱隊諸士招魂の碑にまつわるウワサの心霊話を紹介する。
脱隊諸士招魂の碑とは?

1869年(明治2年)、藩政府は奇兵隊をはじめとする諸隊の再編を断行し、武士の伝統と秩序に基づいた新たな兵制を確立しようと試みた。
しかし、この改革に反発した約2000名の隊士が蜂起し、脱隊騒動と呼ばれる内乱が勃発する。
反乱は一時的に優勢となるも、新政府軍の桂小五郎らの手によって徹底的に鎮圧された。
この反乱の結果、首謀者たちは山口県防府市の「柊」の地で公開処刑された。
3月から5月にかけて処刑された者は少なくとも60名以上にのぼり、遺体は刑場脇の井戸に投げ捨てられた。
さらには、見せしめとしてその首を木に吊るし、出身地で晒すという残酷な行為まで行われたのである。
時は流れ、事件から23年後にようやく彼らの霊を慰めるため、「脱隊諸士招魂の碑」が建立された。
だが、それは彼らの無念を癒すには、あまりにも遅すぎた供養であった。
脱隊諸士招魂の碑の心霊現象
脱隊諸士招魂の碑の心霊現象は、
- 周辺の工場で機械に挟まれる事故が頻発する
- 祈祷師が怯えて供養を断念した
- 工場内で「誰もいないのに声がする」との証言
- 夜間、碑の近くでうごめく影が目撃される
である。以下、これらの怪異について記述する。
碑の近くにある工場では、不可解な事故が多発している。
機械に挟まれてケガを負う者が続出し、ある時、経営者が原因を突き止めようと祈祷師を招いた。
ところが、祈祷師は現場に立つなり顔を青ざめ、「ここには地縛霊があまりにも多すぎる」と告げ、供養を拒否して立ち去ったという。
その後も事故は止まず、実際にダンボール工場で機械に頭を挟まれて死亡するという痛ましい事件も起きている。
現場ではたびたび、「後ろから視線を感じる」「耳元でうめき声がした」との体験談が語られており、碑の存在がただの歴史的な記念物ではないことを物語っている。
夜になると、碑の周囲に黒い影が現れ、まるで誰かが処刑された瞬間を繰り返しているかのように、呻き声とともに空気が重くなるという。
現地を訪れた者の中には、「胸が苦しくなり、足がすくんで動けなくなった」という証言も存在する。
脱隊諸士招魂の碑の心霊体験談
ある男性は、昼間に碑を訪れた際、妙な寒気に襲われたという。
天気は快晴で、風もなかったにもかかわらず、碑の正面に立った瞬間にぞわりと肌が粟立ち、背後で誰かがすすり泣く声が聞こえた。
振り返っても誰もいない。
恐ろしくなりその場を離れたが、帰宅後も数日間、誰もいない部屋から足音が聞こえるようになり、眠ることができなかったという。
脱隊諸士招魂の碑の心霊考察
脱隊諸士招魂の碑は、ただの供養碑ではない。
そこは、怒り、悲しみ、無念といった感情が凝縮された地である。
処刑場という背景、井戸に投げ捨てられた遺体、晒された首。
それらの残酷な歴史が、霊的な存在となって今も現世にとどまり、無差別に人へ影響を与えていると考えられる。
また、霊的エネルギーが強く残る場所では、周囲の機械や電子機器に悪影響を及ぼすことがある。
工場での事故が頻発するのも偶然ではなく、地縛霊による干渉と見るべきであろう。
祈祷師が手を出せなかったという事実が、その異常性を何より雄弁に物語っている。
碑が建てられたことにより、表面上は弔いがなされたように見える。
しかし、それは“死者への償い”ではなく、“生者の罪悪感の証”なのかもしれない。
もし現地を訪れる機会があるならば、軽い気持ちで近づくことは決しておすすめできない。
碑の前で立ち止まるその一歩が、異界との境界を越えてしまうことも、十分にあり得るのである。
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