ある夏の夜、深夜の電車は静寂に包まれていた。
東京の地下鉄で働く駅員の田中は、その日もいつものように最終電車を見送る準備をしていた。
終電が近づくと、乗客の数は極端に減り、車内はほとんど無人になることが多い。
しかし、その日、田中は違和感を覚えた。
終電がホームに滑り込んだ時、田中の目に留まったのは、最後の車両に座っている黒いスーツ姿の男性だった。
彼は俯いていて、全く動かない。
田中は「眠っているのかもしれない」と考え、電車が到着すると、最後の確認に行くことにした。
車両の中を歩くたびに、田中はその奇妙な静けさがいつもより不気味に感じた。
まるで電車全体が無言の圧力を放っているかのようだった。
そして、ついに最後の車両に辿り着き、男性の座っている席を確認したが、そこには誰もいなかった。
「おかしいな……」
確かに男性はそこにいたはずだ。
田中はホームを見渡しても、誰も下りた形跡はない。
周りを再度確認し、足音を聞き逃してしまったのかとホームを歩いて確認したが、結局その男の姿は見当たらなかった。
仕方なくそのまま電車を送り出し、駅の業務を続けていた。
すると、田中の無線が急に鳴った。
無線の向こうから、同じ路線を担当している別の駅員が慌てた声でこう告げた。
「田中さん、ちょっと妙なことがあって……さっきの終電で、車内に黒いスーツの男が乗ってるって苦情が入ったんだけど、どこにもいないんだ。カメラにも映ってない……」
田中の背筋に冷たいものが走った。
男性が確かにいたのを自分の目で見ているはずだが、なぜ誰も確認できないのか。
そして、電車の中でそのまま消えてしまったのか?
その後、田中はその男性のことを調べ始めた。
何年か前に、深夜の同じ路線で黒いスーツの男性が突然電車から消えたという事件が起こっていたことを知った。
その男性は、仕事のストレスから自ら命を絶つことを決意し、ホームで姿を消したのだという。
その夜以来、田中は終電での最後の確認をするとき、背後に何かがいる気配を常に感じるようになった。
それが幻覚なのか、あるいは消えた乗客が今もなお電車をさまよっているのか、彼には分からない。
ただ一つだけ確かなことは、あの日から彼の周りで、奇妙な出来事が続いているということだ。
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