言問橋は東京の隅田川に架かる歴史的な橋で、国道6号と東京都道319号の一部を成す。橋の上で数多くの人々が命を落とす壮絶な惨劇が起こった。そのため、現在でも心霊現象が報告されており、戦争の亡霊が目撃されることがあるという。今回は、言問橋のウワサの心霊話を紹介する。
言問橋とは?
言問橋は、隅田川に架かる橋であり、国道6号(言問通り)と東京都道319号環状三号線の一部を成している。
橋の西岸は台東区の花川戸二丁目と浅草七丁目を分け、東岸は墨田区の向島一丁目と二丁目に分かれている。
元々「竹屋の渡し」という渡船場が存在していた場所である。
両岸は隅田公園の敷地をまたいでおり、橋の東詰側の下を東京都道461号(墨堤通り)が通過している。
橋の概要
- 構造形式: 鋼3径間ゲルバー板桁橋
- 橋長: 238.7メートル
- 幅員: 22.0メートル
- 着工: 1925年(大正14年)5月11日
- 竣工: 1928年(昭和3年)2月10日
- 施工主体: 東京市復興局
- 橋桁製作: 横河橋梁製作所
「言問」の名称は、在原業平の歌に由来するとされているが、実際には多くの説が存在している。
明治4年(1871年)に「言問団子」を創業した外山佐吉が、在原業平を冠して店名をつけたことから、地域が「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、橋の名前にも影響を与えたと言われている。
歴史と背景
言問橋は大正11年(1923年)の関東大震災後の復興事業の一環として建設された。
復興局は115橋を担当し、言問橋もその一つであった。
言問橋は、両岸から伸びる桁と中央の吊桁を支点にした上路形式のゲルバー橋であり、設計は岩切良助が担当した。
総鋼量は2,718トンで、塗装はグレーのオイルペイントが3回塗りされている。
竣工時の総工費は1,830,713円であった。
言問橋は、川端康成の小説『浅草紅団』で「直線の美しさ」を評価され、三大ゲルバー橋の一つと呼ばれることもある。
東京大空襲とその後
昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲では、多くの人々が言問橋を渡ろうとしたが、対岸も火の海となっており、橋の上で進退窮まる状態となった。
焼夷弾が落ち、多数の死傷者を出した。
戦後、言問橋周辺は「蟻の街」と呼ばれる廃品回収業者の共同体が形成され、1958年に移転が決定した。1960年頃には移転が完了している。
橋の西詰には、空襲での犠牲者を追悼する慰霊碑が建てられており、平成4年(1992年)の改修工事で取り外された欄干の基部の縁石が展示されている。
また、江戸東京博物館の屋外通路にも取り外された欄干と縁石の一部が保存展示されている。
平成20年(2008年)には、言問橋が東京都の歴史的建造物に選定され、東京スカイツリーの撮影スポットとしても知られている。
言問橋と隅田川
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向こう岸は浅草 pic.twitter.com/zUgoHn93uv
言問橋の心霊現象
言問橋の心霊現象は、
- 空襲時に亡くなった人々の霊が出る
- 無数の焦げ跡があり、焦げ跡が常に濡れている
- 深夜に行くと女性の霊に遭遇する
である。言問橋が位置する田川周辺は、1945年の東京大空襲で壮絶な惨劇が繰り広げられた場所だ。
この橋を渡ろうとする人々は、川の向こうに避難すれば助かると信じて進んだが、目の前に広がっていたのは火の海だった。
逃げ場を失った人々は橋の上でごった返し、火災旋風が襲い掛かる中、多くが焼け死んだ。遺体は川に溢れ、橋を渡るには遺体の上を踏みしめるしかなかったと言われるほどで、その数は計り知れない。
現在、橋の改修工事は行われているものの、親柱の改修はされておらず、橋の上には未だに焼け死んだ人々の血液や脂が焼き付いているという報告がある。
河川敷にはかつて死体の山があった場所に、現在は慰霊碑が建てられている。
心霊現象として、橋や慰霊碑付近では東京大空襲の被害者の霊が目撃されている。
未供養の霊が残っているため、何らかのメッセージを伝えようとしているのかもしれない。
言問橋の心霊体験談
通勤時の恐怖
毎日言問橋を通勤に利用するが、ここは本当に危険だ。
そろそろ限界を感じて引っ越そうと思っている。
毎日無数の霊に出くわし、目を合わせないようにビクビクしながら通っている。
焦げ跡と血のシミ
言問橋の欄干には無数の焦げ跡があり、なぜかその焦げ跡は常に濡れているという不可解な現象が報告されている。
また、「言問橋」と書かれた石の鉄板には血のシミが残っていると云われている。
神社近くのトンネル
言問橋近くの神社(牛の石像がある神社)のそばにあるトンネルでも、空襲時に亡くなった人々の霊が出るという話がある。
深夜の恐怖体験
ある夜、深夜2時に友人と共に奥宮まで行くと、女性の霊が立っていた。
私たちの笑顔は瞬時に消え、肩にずっしりと重いものを感じた。
後ろを見ると幽霊が立っており、友人の後ろにもいた。「怖い」と叫びながら逃げた。
深夜3時に戻ってきたが、友人は翌日病気で入院してしまった。
今も入院中であるという。
深夜に行くのは本当に危険だと実感した。
言問橋の恐怖 戦争の亡霊が見せた壮絶な光景
静岡に住んでいた私は、会社関係の友人が東京に転勤することになり、しばらくの間、東京の支社で働くことになったと聞いた。
以前から東京には再び行きたいと思っていた私にとって、これは絶好の機会だった。
友人から「来ないか」と誘われた際、迷わず夏休みを利用して数十年ぶりに東京を訪れることに決めた。
東京についてはほとんど知識がなく、名称だけは耳にしたことがあるものの、行き方もさっぱりわからなかった。
しかし、友人は東京のことに詳しく、私に様々な場所を案内してくれると言っていた。
東京ドームから誰もが知っている観光地を巡った後、最後に連れて行かれたのが隅田川だった。
川沿いを歩きながら、思わず鼻歌を口ずさんでいた。
すると、突然、友人が凍りついたように立ち止まった。
私は何かおかしいと思い、振り返ると友人の顔が青ざめていた。
そこで初めて、私も言問橋のことを知った。
言問橋は太平洋戦争中、壮絶な惨劇があった場所だったのだ。
1945年3月10日の東京大空襲の夜、橋を渡ろうとした人々が両端から殺到し、中央で進退窮まってしまった。
熱風に焼かれて1000人以上が橋の上で命を落とし、惨劇を生んだ。
その事実を知っていた私が驚いたのは、友人が言問橋の歴史を知らなかったにもかかわらず、橋の上で苦しむ無数の人々の姿を見ていたということだ。
さらに、隅田川には無数の死体が浮かぶ様子が見えると言った。
その瞬間、友人の言葉が脳裏に焼きついた。
彼が何も知らずに言い当てたそのビジョンは、単なる偶然ではない。私の背筋に冷たいものが走り、全身に寒気が広がった。
友人は、その後も橋の上で立ちすくんでいるかのように見える人々の苦しむ姿を、じっと見つめていた。
結局、その日から友人の様子が変わり始め、夜になると彼の部屋で何かが動く音がするようになった。
あの橋で目撃したものが彼に影響を与えたのだろうか。
私たちの東京での短い滞在の後、友人は頻繁に霊的な現象に見舞われるようになり、最終的には東京を離れることになったらしい。
言問橋での体験は、ただの観光ではない、背筋が凍るような恐怖の記憶として、私の心に深く刻まれているのだ。
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