御坊川原(花園ふれあい公園)は、高松藩の処刑場として罪人や隠れキリシタンが命を落とした地であり、さらし首や殉教の記録が残る。明治以降も火葬場や屠殺場として使われ続け、数多の血と怨念が染みついた場所であるという。今回は、御坊川原(花園ふれあい公園)にまつわるウワサの心霊話を紹介する。
御坊川原(花園ふれあい公園)とは?

御坊川原(花園ふれあい公園)とは、かつて高松藩の処刑場として用いられた場所である。
場所は御坊川の右岸、花畑の南、旧焔硝蔵の西方にあたり、『日本刑罰史蹟考』にも記録が残されている。
藩政時代には罪人の斬首が行われ、さらし首として御坊川橋に掛けられたという。
また、桜町にある教会の記録によれば、この地は江戸時代に隠れキリシタンを処刑した地でもあり、アントニオ石原孫右衛門とその子・フランシスコ(当時わずか4歳)が殉教したと伝わる。
禁教や冤罪によって奪われた命の数は定かでないが、その怨念は濃く、この土地には重苦しい空気が今も漂っているといわれている。
明治以降は火葬場、さらに平成期まで屠殺場として利用されていた曰くつきの土地であり、最終的に整地されて公園となった。
しかし、表面が整えられたからといって、過去の怨念が消え去ったわけではない。
むしろ静かな公園の姿の裏に、処刑と流血の記憶が潜んでいるのである。
御坊川原(花園ふれあい公園)の心霊現象
御坊川原(花園ふれあい公園)の心霊現象は、
- 白い人型をした御札が川を流れていく
- 公園に人の気配がまったくなく、不自然な静けさに包まれる
- 突然の冷気と鳥肌を感じる
- 声なき声「お話して」「それから?」といった囁きを耳にする
- 公園内の椅子や遊具のそばで、誰もいないのに気配を感じる
である。以下、これらの怪異について記述する。
白い人型をした御札が御坊川に流れていたという話は、昭和末期まで続いた実話として語り継がれている。
罪人や殉教者の魂を鎮めるためのものか、それとも逆に封じ込めるためのものであったのかは定かではない。
現在は公園として整備されているが、口コミにも「誰も使っていない」「入りにくい雰囲気がある」との声が多い。
新しい遊具があるにもかかわらず子どもの姿すらなく、ただ不自然な静けさだけが漂っているのである。
また、御坊川を見下ろす橋では「処刑場があった」と考えた瞬間、季節外れの冷気に襲われ鳥肌が立ったという証言もある。
これは過去の記憶を土地が呼び覚まし、訪れた人に訴えかけているのではないだろうか。
さらに恐ろしいのは、風のような声が「お話して」「それから?」と語りかけてきたという体験談である。
これは殉教した者たちの声なのか、あるいは処刑された罪人たちの断末魔のこだまなのか。
その答えは今も定かではない。
御坊川原(花園ふれあい公園)の心霊体験談
ある者は夏の夕暮れ、公園の中央に置かれた椅子で休んでいたときに、周囲をぐるりと囲む椅子のわきから強烈な視線を感じた。
振り返っても誰もいない。
しかし、その場に「確かに誰かが座っていた」という感覚だけが残ったという。
別の日の昼、公園に足を踏み入れた人は「人っ子ひとりいない」「遊具だけが取り残されている」と証言している。
平日の昼間に児童の姿すらなく、ならされた大地に漂う虚無感が、かえってこの土地の過去を思い起こさせたのである。
御坊川原(花園ふれあい公園)の心霊考察
御坊川原は、江戸期の処刑場、キリシタン殉教の地、火葬場、屠殺場と、常に「死」と隣り合わせであった。
しかも処刑場は見せしめのために街道沿いに設けられることが多く、人々の視線と記憶に刻まれるように造られていた。
供養碑もかつては存在したが、墓地の整理で無縁墓として処分され、今は跡形もない。
鎮魂の場を失った魂は、行き場をなくし、この地を彷徨い続けているのではないだろうか。
公園という形で整えられた御坊川原だが、静けさの裏には歴史に刻まれた血と怨念が眠っている。
それゆえに、訪れる者が無意識に冷気を感じ、声を聞き、視線を覚えるのだと考えられる。
御坊川原は、単なる史跡ではなく「今も息づく処刑場の残響」であるといえよう。
コメント