僕がこのアパートに引っ越してきてから、もう半年が過ぎた。
都会の喧騒から離れ、南国の温暖な気候を求めて選んだのが沖縄だった。
ここは、赤瓦の屋根が特徴的な古びた建物が立ち並ぶ静かな住宅街で、近くにはサトウキビ畑が広がり、海風が心地よく吹いている。
隣に住む老婦人は、近所で評判の人物だった。
いつもカラカラと笑いながら、沖縄の伝統的な花柄のかりゆしウェアを着て、庭先のシーサーを大切にしているのが印象的だった。
彼女の笑顔は、まるで温かい南風のように、誰にでも向けられる優しいものだった。
僕が引っ越してきた日も、彼女は手作りのゴーヤチャンプルーを持ってきてくれた。
「これからよろしくね」と、にこやかに微笑みながら。
しかし、ある日を境に、その微笑みが消えた。
玄関先で顔を合わせても、目も合わさず、ただ無表情でうつむいているだけだ。
最初は、何かあったのかと心配したが、直接尋ねる勇気が出なかった。
彼女があまりにも無表情で、以前とは別人のようだったからだ。
隣の庭先に飾られていた赤いハイビスカスも、なぜか枯れてしまっていた。
その夜、僕はいつものように窓を開け放ち、沖縄特有の湿った風を感じながら眠りにつこうとしていた。
外からは、遠くに聞こえる波の音と、島独特の虫たちの声が混ざり合っていた。
深夜、突然、隣の部屋から「ギィ…ギィ…」と何かを引きずるような音が響いてきた。
最初は気のせいかと思ったが、音は次第に大きくなり、そして、何かがすすり泣くような声が聞こえてきた。
恐怖がじわじわと僕の体を包み込み、動くことができなかった。
音はしばらく続いた後、突然、ピタリと止んだ。耳を澄ませてみたが、それ以上何も聞こえなかった。
しばらくして、遠くの波音だけが再び響き始めた。
翌朝、僕は隣の老婦人の部屋を訪ねてみた。
しかし、何度呼びかけても返事はなかった。
心配になって管理人に連絡すると、驚くべきことを聞かされた。
「その部屋、もうずっと前から空き家になってますよ」と。
彼女がいつ出て行ったのか、管理人ですら知らなかった。
気味が悪くなった僕は、すぐにその場を離れた。
しかし、頭の中で昨夜の音が何度もリフレインする。
彼女が何を引きずり、なぜ泣いていたのか。そして、彼女はどこへ行ってしまったのか。
その後、彼女の姿を再び見ることはなかったが、夜になると、ふとした瞬間にあの音を思い出してしまう。
そして、あの優しい微笑みが消えた日を、何度も思い返してしまうのだ。
なぜ彼女は無表情になり、消えたのか。
その答えは、永遠に謎のままだ。隣のシーサーだけが、変わらぬ静寂を見守っているようだった。
コメント