本記事は、「心霊現象の考察」シリーズの一編であり、ひとつの区切りとなる内容である。
これまで本シリーズでは、見えない揺らぎ、夜という時間、人が意味を与える行為、そして「見える人」という存在について考察してきた。
ここで改めて問いたい。
「幽霊は存在するのか」という問いは、本当に正しい問いなのだろうか。
人は「あるか、ないか」で考えたがる
幽霊の話題になると、多くの場合、議論は二択に収束する。
- 幽霊は存在する
- 幽霊は存在しない
しかし、この問いの立て方そのものが、人間の思考の癖を反映している。人は物事を「ある」「ない」で分類しなければ、安心できない。
成仏という概念がそうであったように、人は曖昧な現象に明確な結末や答えを求める。その結果、「幽霊は存在するのか」という問いが生まれた。
だが、その問いは、現象の本質を捉えているとは限らない。
宇宙以前に「揺らぎ」があったという事実
かつて、宇宙が生まれる以前は「完全な無」であったと考えられていた。しかし現在では、その無とされていた状態にも、観測不能な揺らぎが存在していたとされている。
それは「存在している」とも「存在していない」とも言い切れない、極めて曖昧な状態であった。
この事実は、「存在とは何か」という問いそのものが、単純ではないことを示している。幽霊についても、同じ構造が当てはまるのではないだろうか。
幽霊は「物」ではなく「現象」なのかもしれない
幽霊を、机や椅子のような「存在物」として考えると、どうしても証明や否定の話になる。しかし、もし幽霊が固定された存在ではなく、条件が揃ったときに立ち上がる現象だとしたらどうだろうか。
夜という時間、人間の意識状態、場所の記憶、感情の残り香。そうした要素が重なったとき、何かが「幽霊として認識される」。
この場合、幽霊は「いるか、いないか」で語る対象ではない。起きるか、起きないかという種類のものになる。
「見える人」は幽霊を見ているのではない
見える人についての考察からも、この視点は導き出される。
見える人は、必ずしも明確な像を見ているわけではない。気配、違和感、そこにあるはずのない存在感。それらを総合して「見えた」と表現しているにすぎない場合が多い。
つまり、見える人とは、幽霊という存在を視認している人ではなく、幽霊という現象が立ち上がる条件に入り込んでしまった人なのかもしれない。
成仏という概念が示しているもの
成仏という言葉は、幽霊の行き先を説明するためのものだと思われがちである。しかし実際には、成仏は幽霊よりも、人間の側を救うための概念であった。
終わりが与えられない現象は、人に不安を与え続ける。だからこそ、人は「成仏した」という物語を必要とする。
ここでもまた、「存在するかどうか」ではなく、「どう意味づけるか」が問題になっている。
問いを変えると、見えるものも変わる
もし、「幽霊は存在するのか」という問いを捨てるとしたら、代わりに何を問うべきだろうか。
それは、
- なぜ人は、そこに何かを感じたのか
- どんな条件で、それは起きたのか
- なぜそれを幽霊と呼んだのか
という問いである。
この問いに切り替えたとき、幽霊は否定すべき迷信でも、証明すべき存在でもなくなる。人間と世界の境界で起きる、ひとつの不思議な現象として立ち上がってくる。
結論:幽霊は「存在」ではなく「境界」なのかもしれない
幽霊は、世界のどこかにいる存在ではないのかもしれない。
それは、生と死、現実と非現実、理性と感覚、その境界が揺らいだ瞬間にだけ現れる。
宇宙以前に揺らぎがあったように、人間の認識にも揺らぎがある。その揺らぎの中で、人は幽霊を見たと感じ、物語を与え、やがて忘れていく。
幽霊は存在するのか。
その問いに答えが出ないのは、問いそのものが間違っているからなのかもしれない。


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