大阪市を流れる淀川に架かる「淀川橋梁(赤川鉄橋)」には、今も戦時中の悲劇とともに語り継がれる数多くの怪異の噂が存在する。今回は、淀川橋梁(赤川鉄橋)にまつわるウワサの心霊話を紹介する。
淀川橋梁(赤川鉄橋)とは?
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淀川橋梁(よどがわきょうりょう)は、大阪市東淀川区東淡路と都島区大東町を結ぶ、おおさか東線の鉄道橋である。
1929年(昭和4年)に城東貨物線の一部として建設され、長らく単線運行であった。
当初から複線幅で設計されていたため、余剰スペースに「赤川仮橋」と呼ばれる木造の歩道が設置され、鉄道橋でありながら歩行者が渡れるという珍しい構造を持っていた。
この歩道は地域住民の生活道路として愛され、鉄橋を渡りながら淀川や野鳥の風景を楽しむことができる名所でもあった。
しかし、2013年10月、おおさか東線の複線化に伴い歩道は閉鎖された。
橋は第二次世界大戦の戦火をくぐり抜けた構造物でもあり、たもとにはB29の空襲による「爆弾池」と呼ばれる池が今も残る。
橋脚の一部には、当時の機銃掃射による弾痕が確認されているという。
こうした戦争の爪痕とともに、この橋には今なお消えぬ“何か”が残っていると噂されている。
淀川橋梁(赤川鉄橋)の心霊現象
淀川橋梁(赤川鉄橋)の心霊現象は、
- 防空頭巾を被った少年の霊が橋の中央に座っている
- 着物姿の女性が線路上を歩いている
- 夜中に橋の上で突風が吹き抜ける
- 写真に軍服姿の影や白い光(オーブ)が写り込む
- 橋の東側の堤防で誰もいないのに背後から強風が吹く
である。以下、これらの怪異について記述する。
まず最も多く報告されているのが、防空頭巾を被った少年の霊である。
橋の真ん中付近、かつて歩道と線路が並んでいたあたりで、夜になると小さな影が座り込んでいるのが見えるという。
近づくと霧のように消えるが、視線を感じたまま離れられないという体験談が複数存在する。
また、線路の上をゆっくりと歩く着物姿の女性の姿も語られている。
電車が通る直前にその影を見た運転士が、後に確認すると誰もいなかったという噂もある。
この女性の霊は、空襲の際に橋の下へ逃げ込んだ人々の中で亡くなった一人ではないかと囁かれている。
さらに奇妙なのは、風に関する体験である。
普段は無風の夜、堤防を歩いていると突然、後ろから突風が吹きつけるという報告がある。
その風は生ぬるく、まるで誰かが通り過ぎたかのように頬をかすめるという。
ランニング中にそれを受け、土手の下に転げ落ちそうになったという話もある。
また、デジタルカメラで撮影した写真に“軍服姿の影”が写り込むことがあるとされる。
線路の上や踏切付近で白い発光体(オーブ)が複数確認されたという報告もあり、戦没者の霊が今なお橋をさまよっているのではないかと恐れられている。
淀川橋梁(赤川鉄橋)の心霊体験談
ある男性が、夜の23時ごろに車で赤川鉄橋の近くを徐行していたときのことである。
その夜、風は一切吹いていなかったにもかかわらず、突然、車内に強烈な冷たい風が流れ込んできた。
驚いた彼は車を停止させ、風の吹いた方向をデジカメで撮影した。
後日、写真を確認すると、線路を撮った1枚にだけ“軍服姿の影”がはっきりと写っていたという。
さらに、踏切を撮影した写真には白く発光する球体が複数映り込んでいた。
現場では事故や事件の噂は聞かれないが、戦時中に失われた命の記憶が、未だに橋の周囲に留まっているのかもしれない。
また別の体験談では、堤防をランニングしていた男性が突然突風に吹かれ、危うく土手から転げ落ちそうになったという。
周囲には誰もおらず、風も無風状態であった。彼は「まるで背後から誰かが押したようだった」と語っている。
淀川橋梁(赤川鉄橋)の心霊考察
淀川橋梁の周辺は、第二次世界大戦中の空襲によって多くの命が失われた土地である。
橋脚には弾痕が残り、たもとの池は爆弾の跡だとされる。
こうした“死”の記憶が、時間を経てもなお土地に染みつき、形を変えて現れているのかもしれない。
少年や女性の霊、軍服姿の影、そして不自然な風――。
それらは偶然の現象に過ぎないのか、それとも空襲の夜に橋の下で息絶えた人々の無念が、今もこの場所に留まっているのか。
淀川橋梁は、現在もおおさか東線の列車が走る現役の鉄橋である。
しかし、かつて歩行者が渡ったあの橋の上には、今もなお、戦争の影が静かに息づいているようである。


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