初鹿野諏訪神社には、『呪いの御神木』というホオノキが存在しており、絶対に切ってはいけないと恐れられている。この木に触れてしまうことさえタブーとされており、心霊スポットとして有名である。今回は、初鹿野諏訪神社(呪いの御神木)のウワサの心霊話を紹介する。
初鹿野諏訪神社(呪いの御神木)とは?
この神社の創建年は不詳だが、甲斐国志には「諏訪明神日影村東北の方初鹿野古道の上に祀る」との記述がある。
旧日影村駒飼部落の産土神であり、社地には黒印神領一石二斗九升三合が与えられていた。また、南方の笹子嶺上には諏訪天神の二つの祠が置かれていた。
現在の本殿は延享1年(1744年)に再築されたもので、風貌から歴史を感じることができる。
明治36年(1903年)には大杉が切り落とされたが、その跡も見ることができる。
甲斐大和駅からは5、6分で着くため、時間がある際に訪れてみると良い場所である。
この神社は武田勝頼公が諏訪法性と風林火山の旗を立て、仮の陣を張った場所としても知られている。
本殿の建立は江戸初期であり、その後何度か再築・再建されてきた。
御祭神は建御名方神である。
設置してある説明板の文言では、ホウノキは、日本武尊(ヤマトタケル)がこの地に憩った折り、杖にしたものが発芽したものと伝承されており、神木を疎かにすると、不祥の事件がおこると信じられ、誰も神意に逆らわないようにしているという。
周辺には諏訪神社が多々あるため、他と区別するために『初鹿野諏訪神社』と呼称されている。
そういえば「八幡の藪知らず」がTLに上がってたけど、ガチの祟り系で言えば山梨の初鹿野諏訪神社「ホオノキ」もあったなぁ。
— GENKI 機関銃卿 (@Cpt_TAKAHASHI) July 21, 2020
柏餅の葉っぱにこのホオノキの葉を使ったら集落の12戸中10戸が不審死したとか、残り2戸も洪水で流されて集落全滅とか。
国鉄職員が枝払いしたら7人全員が死亡または重軽傷とか pic.twitter.com/5xg68FSiF7
初鹿野諏訪神社(呪いの御神木)の心霊現象
諏訪神社(呪いの御神木)の心霊現象とは、
- 祟りが起こる
である。切ることが許されない呪いの御神木として最恐の祟りの力があると恐れられている。
呪いの御神木を伐採しようとした者は、事故死や事故に巻き込まれるなどの祟りが起こると信じられている。
昭和24年(1949年)に男性から暴行を受けた女性が御神木で首を吊ったという話がある。
その後、毎晩女性の笑い声が聞こえるようになったらしく、しばらくすると暴行した男性は変死体となり発見されたそうだ。
その後、『呪いの御神木』などと云われるようになったという話が一説である。
地元の者の話では、呪いの御神木(ホオノキ)には子供の頃から近づかないように云われてきたらしく、悪戯する者は絶対にいないという。
呪いの御神木は枝払いさえもされず、鉄骨の屋根で覆われているだけである。
現在も月に一度、お神酒が供えられているそうだ。
ここまで強力で具体的な心霊現象は稀有とのこと。
諏訪神社の裏手にひそむ呪いの御神木(ホオノキ)は、意外に小さいらしいが、知らない人からはこんなに逸話を持っているとは思えないはずである。
境内の少し離れた場所には巨大な杉の切り株もある。
これは明治時代、汽車の煤煙や振動により枯れた木だと云われている。
ホオノキよりもこちらが「祟る木」であると云われることもあり、今まで起きてきた災厄は大杉の呪いだという話も。
そうだとすれば、いくら呪いの御神木(ホオノキ)を丁重に扱っていても、この地に根付く祟りは止まらないのではないかという者も一部ではいる。
不祥の神木 – 神社に宿る怪奇な事件とその影響
甲斐大和駅の近くにある神社は、本殿が県指定の文化財であり、周囲には見事な彫刻が施されている。
本殿の後ろには日本武尊(ヤマトタケル)が使ったと伝えられる御神木のホオノキが立っている。
地元の教育委員会の案内板によると、この神木を大切にしないと「不祥の事件」が起きるという信仰があり、公的にも祟りの存在を認められているとのこと。
具体的な事件として、昭和28年(1953年)にこの神社の近くで架線に枝が触れる事故が発生し、6名の作業員のうち5名が事故死し、1名が重傷を負った。
また、昭和43年(1968年)には御神木の撤去計画が持ち上がった直後に、近くの中学校の生徒を乗せたバスが無免許の少年の運転するトラックと衝突し、6名が亡くなる惨事が起きたとのこと。
これ以降、鉄道関係者は御神木に触れることを避けるようになり、架線との接触を防ぐ対策を施している。
現在は大掛かりな金属製の囲いを設けて、御神木と線路が触れるのを防止しているようだ。
恐怖の祟り話 – 神木と川久保集落の不可解な事件
この祟り話の始まりは明治36年(1903年)。
その年、大月駅から初鹿野駅(現在の甲斐大和駅)まで中央本線が延びる際、ホオノキと呼ばれる神木に鉄道を通さないように線路をカーブさせたという記録が残っている。
すでに明治時代には、この神木が恐ろしい存在として認識されていたようだ。
大きな災害が起こったのはその2年後、明治38年(1905年)の5月のことだった。
近くの川久保集落では、端午の節句に柏餅を作る際に、通常は柏の葉を使いますが、その年だけは諏訪神社のホオノキから葉を取ってしまったとのこと。
当時は祟りの木であるという知識があったものの、誰もがその葉取りが大災害を引き起こすとは考えなかった。
しかし、柏餅を食べた川久保集落の人々が次々と急病に倒れ、多くの人が亡くなってしまった。
その後の大水害によって集落は壊滅し、生き残った者たちは別の場所へ移住せざるを得なかった。
もちろん、この出来事を祟りと見るかどうかは意見が分かれる。
当時はコレラの流行もあり、他の原因である可能性も考えられるが、地元の人々は大きな恐怖を感じたことは間違いない。
実際に、その後の大正7年(1918年)には駅の拡張工事、昭和4年(1929年)には電化工事に伴い、ホオノキの伐採案が出されましたが、どれも引き受ける者がおらずに取り消されてしまったのだ。
怪談を読むのを習慣にしていました。初鹿野諏訪神社の話を読んでいると、鞭で叩くような激しい音が。「この話、やばいのかなあ」と思いながらも読んでいると、棚の筆立てが突き飛ばされたように床に落ちました。夜中に目覚めると、10分に1度は「カタ、カタ」と音が。以降、怪談を読むのをやめました。 pic.twitter.com/GvU6tuJKuK
— Calibur (@Calibur17) July 27, 2021
呪われた枝払い – ホオノキの祟りと不可解な連続事故
昭和28年(1953年)に、中央本線の架線に邪魔をするホオノキの枝払いが行われることになった。
この作業は根元から伐採するのではなく、伸びた枝を整理するものであった。
事前に神職を呼んで慰霊祭を行い、丁寧に準備した後に作業を始めたのだが…。作業の直後、枝払いをした者の1人が勝沼町で事故死した。
彼はなぜか夜に線路上を歩いていて、列車にはねられてしまった。
そして、5年後の明治33年(1958年)の3月には、同じく枝払いをした者が甲府駅構内で列車にはねられて死亡。
勝沼町で事故死した者と同じく、事故死も同じ時刻であったとのこと。
更に同年の11月には、お祓いを執り行った神官がマスの養魚池で溺れて死体として発見された。
彼がなぜ池に落ちたのかは謎のままであるという。
そして、この枝払い作業に参加した2人の国鉄職員も被害に遭った。
1人は突然の病死し、もう1人は静岡での転勤後に夜間の作業中に列車にはねられて亡くなった。
作業メンバーの中で生き残ったのは2名だけで、彼らも大事故に巻き込まれて療養を余儀なくされ、祟りを恐れていたとのこと。
呪われたホオノキ – 不可解な事故と再燃する畏怖
そして、昭和43年(1968年)の5月15日、再びホオノキへの畏怖が再燃することとなった。
甲斐大和駅近くの大和中学校の生徒たちが大事故に巻き込まれたのである。
彼らを乗せた修学旅行バスが国道20号線で脇見運転をしていた大型トラックと衝突。
バスは右正面を大きく損傷し、6人が亡くなり、21人が重傷を負う大惨事となった。
当時の新聞記事を読んでみると、いくつかの不可解な点があるらしい。
まず事故を起こした時に、トラックを運転していたのはドライバー社員ではなかったのである。
ドライバー社員は事前に2週間の休暇を取っていたのにも関わらず、なぜか1時間だけ運転した後、積み下ろしの助手に運転を任せてしまったのである。
しかも、その助手は無免許の少年で、交代後わずか数分で事故を起こしたのだ。
軽い気持ちで少年に運転を任せたのかもしれないが、これはあまりにも不条理で不思議な出来事である。
地元の住民たちもこの事故に疑問を抱いた人が多かった。
実は事故の3日前、国鉄がホオノキの根元をいじっていたというウワサが町中に広まっていったそうだ。
これらの出来事によって、再びホオノキへの恐怖がよみがえったという。
間違っても呪いの御神木(ホオノキ)に触れたり、葉っぱに持ち帰ってはいけない。
初鹿野諏訪神社(呪いの御神木)の場所・アクセス・地図
初鹿野諏訪神社(呪いの御神木)の住所 | 日本、〒409-1203 山梨県甲州市大和町初鹿野1684 |
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交通アクセス | 山梨市から県道303号、旧甲州街道、および 甲州街道/国道20号 経由で21分 |
最寄りのバス停 | 大和小学校(徒歩3分)県道203号 経由 |
最寄り駅 | 県道203号 経由(徒歩2分)県道203号 経由td> |
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