貞享義民塚(勢高処刑場跡)は、『貞享騒動』(百姓一揆)で農民を守るために立ち上がった元庄屋の多田加助やその家族ら28名が処刑された場所である。今回は、貞享義民塚(勢高処刑場跡)のウワサの心霊話を紹介する。
貞享義民塚(勢高処刑場跡)とは?
この場所は松本平(安曇野平)で、江戸時代に百姓一揆が起きた際に処刑された人々の墓(お墓)である。
昭和25年(1950年)10月16日に丸ノ内中学校の校庭整備(拡張整備)が行われていた際、17体の人骨が発見された。(合計18体だったが、残りの1体は別の原因で埋められたらしい)
専門家の調査の結果、これらは貞享一揆で処刑された人々のものと判定されたそうだ。
処刑場所も見つかった場所の近くに位置しており、現在の校庭と神社の境目付近とされている。
しかし、勢高刑場はこの一揆のための臨時刑場であり、残りの者は井川刑場で処刑されたと考えられている。
井川刑場は松本駅南の田川沿いにあり(線路と田川が一番近い辺り)、当時の南無阿弥陀仏の石仏が存在している。
2巻はここもマストですね!貞享義民塚。松本の歴史を伝える場所です。あまり観光ガイドなどには取り上げられてないみたいですが、図書館にはしっかり関連書籍が並んでて、こどもたちも町の歴史として学んでるんだな、と感じました。どうぞこれからも安らかに。 pic.twitter.com/6NrYwTl0qE
— たまにか (@tama2ca) July 10, 2022
貞享義民塚(勢高処刑場跡)の心霊現象
貞享義民塚(勢高処刑場跡)の心霊現象は、
- 百姓の怨念が渦巻いている
である。貞享3年(1686年)、安曇平では不作だったのに、松本藩は年貢を増やしてしまった。
百姓たちは多田加助を中心にして、自分たちの困窮を奉行所に訴えることにしたという。
訴状を提出する日には、1万人もの百姓が松本城周辺に集まったそうだ。
城代の家老はこの事態を深刻に受け止め、不在の藩主に代わって百姓たちの要求を受け入れ、年貢減免の回答書を渡した。
しかし、後になって約束を破り、一揆の首謀者を捕まえる動きを始めた。
そして、翌月の11月22日に多田加助とその一族は処刑された。
多田加助は処刑の際に松本城を睨みつけ、その瞬間に天守閣が傾いたと云われている。
松本藩は約束を破り、百姓たちを欺いたため、殺された百姓たちの怨念は深く、今でもこの場所には彼らの怨みが渦巻いていると云われている。
勢高刑場跡地の貞享義民塚、ここで17名が刑死した。
— 雲楽 いまだ道半ば (@zen_unraku) July 17, 2019
出川が正式で、ここは臨時の刑場だそうだ。小高い丘にあり、場所は宮渕3丁目にある。アルプス公園、城山公園近くである。
安曇郡はここ、筑摩郡は出川で処された。 pic.twitter.com/5jt7lS888P
貞享義民塚(勢高処刑場跡)の場所・アクセス・地図
貞享義民塚(勢高処刑場跡)の住所 | 日本、〒390-0862 長野県松本市宮渕3丁目7 |
---|---|
交通アクセス | 長野市から長野自動車道 経由で約1時間1分 |
最寄りのバス停 | 丸の内中学校前(徒歩2分) |
最寄り駅 | 北松本駅(徒歩14分)松本市道1299号線 経由 |
コメント