貞享義民塚(勢高処刑場跡)

貞享義民塚(勢高処刑場跡)は、『貞享騒動』(百姓一揆)で農民を守るために立ち上がった元庄屋の多田加助やその家族ら28名が処刑された場所である。今回は、貞享義民塚(勢高処刑場跡)のウワサの心霊話を紹介する。

貞享義民塚(勢高処刑場跡)とは?

この場所は松本平(安曇野平)で、江戸時代に百姓一揆が起きた際に処刑された人々の墓(お墓)である。

昭和25年(1950年)10月16日に丸ノ内中学校の校庭整備(拡張整備)が行われていた際、17体の人骨が発見された。(合計18体だったが、残りの1体は別の原因で埋められたらしい)

専門家の調査の結果、これらは貞享一揆で処刑された人々のものと判定されたそうだ。

処刑場所も見つかった場所の近くに位置しており、現在の校庭と神社の境目付近とされている。

しかし、勢高刑場はこの一揆のための臨時刑場であり、残りの者は井川刑場で処刑されたと考えられている。

井川刑場は松本駅南の田川沿いにあり(線路と田川が一番近い辺り)、当時の南無阿弥陀仏の石仏が存在している。

貞享義民塚(勢高処刑場跡)の心霊現象

貞享義民塚(勢高処刑場跡)の心霊現象は、

  • 百姓の怨念が渦巻いている

である。貞享3年(1686年)、安曇平では不作だったのに、松本藩は年貢を増やしてしまった。

百姓たちは多田加助を中心にして、自分たちの困窮を奉行所に訴えることにしたという。

訴状を提出する日には、1万人もの百姓が松本城周辺に集まったそうだ。

城代の家老はこの事態を深刻に受け止め、不在の藩主に代わって百姓たちの要求を受け入れ、年貢減免の回答書を渡した。

しかし、後になって約束を破り、一揆の首謀者を捕まえる動きを始めた。

そして、翌月の11月22日に多田加助とその一族は処刑された。

多田加助は処刑の際に松本城を睨みつけ、その瞬間に天守閣が傾いたと云われている。

松本藩は約束を破り、百姓たちを欺いたため、殺された百姓たちの怨念は深く、今でもこの場所には彼らの怨みが渦巻いていると云われている。

貞享義民塚(勢高処刑場跡)の場所・アクセス・地図

貞享義民塚(勢高処刑場跡)の住所 日本、〒390-0862 長野県松本市宮渕3丁目7
交通アクセス 長野市から長野自動車道 経由で約1時間1分
最寄りのバス停 丸の内中学校前(徒歩2分)
最寄り駅 北松本駅(徒歩14分)松本市道1299号線 経由

貞享義民塚(勢高処刑場跡)の地図(Googleマップ)

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