浦添城跡は、首里城に王宮が移される以前…琉球国中山の歴史が200年余りに渡り続いた歴史のあるお城。だが、沖縄戦で壊滅的な状態となった「浦添ようどれ」など悲しい歴史もある。浦添城跡では、日本兵の霊や防災頭巾を被った霊がでるというウワサがあるのだが…。
浦添ようどれと暗しん御門と発光体

浦添城跡の付近は、沖縄戦で爆弾投下や艦砲射撃などにより、浦添ようどれ(英祖王と尚寧王が葬られているお墓)が破壊されるほどの激戦地だった。
沖縄戦で破壊されたが、浦添ようどれに続く道に「あの世の世界」に行ったかのような場所…暗しん御門(くらしんうじょう)があった。
薄くひんやりとしており地下通路を通って、まるで「あの世」に行く雰囲気だった…という。
【浦添城跡】ようどれとあの世の世界 第二章 ~霊の気配を感じる場所~【閲覧注意】
暗しん御門の場所にある岩の割れ目から、発光体らしき白い影が見えた。それがあの世のものであるのかはまだ分からないが…何度か行ってみると分かる事があるかもしれない。
伊波普猷の墓で漂う霊魂

浦添城跡内には伊波普猷(いはふゆう)の墓がある。伊波普猷は、沖縄研究の第一人者で沖縄学という分野を生み出し「沖縄学の父」と呼ばれている。
伊波普猷の研究により、首里城に王宮が移される以前…浦添グスクが琉球国中山の王城であったと考えられるようになったのだ。
浦添城跡内を歩いていると線香と泡盛のニオイがして歩いていくと…伊波普猷の墓にたどり着いた。
伊波普猷の墓では、伊波普猷と関係のあるかは正直分からないが、様々な発光体・オーブを確認した。
【心霊】浦添城跡に漂う霊魂 第三章 ~伊波普猷の墓~【閲覧注意】
伊波普猷の墓の顕彰碑には、「彼ほど沖縄を愛した人はいない」と刻まれている。
浦添グスクの拝所 ディーグガマ

浦添グスクの中を進んでいくと、御嶽であるディーグガマがある。ディーグガマは、浦添グスク内にある拝所(御嶽)の一つで、琉球由来記には渡嘉敷御嶽といわれ、昔はデイゴの木がガマ(洞穴)の近くにあったことからディーグガマと呼ばれたようだ。
沖縄戦では、多数の死者をディーグガマに一旦放り込み、戦後にきちんと納骨し浦和の塔を建てたそうだ。
納骨堂には、浦添グスクを中心に軍人や民間人5000人余り柱が安置されており、毎年十月には慰霊祭を催して英霊を慰めている。
又、後に遺骨は糸満市の摩文仁に移されていると案内文に記載されている。現在は、岩が崩れる恐れがあるためディーグガマの内部に入ることはできないが、ひんやりとした空気が流れるガマ内部の一部を見ることは可能。
【心霊】浦添グスクの拝所 第四章 ~ディーグガマ~【閲覧注意】
ここでもハッキリと浮遊している英霊と思われるオーブを映すことができた。やはり、これからも慰霊祭は催し慰めていくことは必要だと感じる場所だ。
シーマヌウタキにいる亡霊

シーマヌウタキは浦添城跡の伊波普猷の墓からグスクへ向かう道で、石垣が分断されたところを通ることで行けるらしい。
私の場合、浦添城跡をぐるりと周っていくと、シーマヌウタキにアゲハ蝶が案内してくれたのを覚えている。
日本軍が作った陣地壕が伊波普猷の墓の近くにあるのだが、そことシーマヌウタキが内部で繋がっているという情報もある。当時の状況を調べる為、年に何度か自衛隊が壕の内部に入っているという。
伊波普猷の墓でビシバシと霊を感じた理由がこの時点で理解した。シーマヌウタキの森が伊波普猷の墓の周囲の森と同じではないかという推測である。
そう考えGoogleマップの地図を見ると、隣にある…やはりそういう事かと納得した。伊波普猷の墓で感じた霊の存在は、シーマヌウタキが原因であろう。
シーマヌウタキでは数多くの霊の存在を感じ、人の姿の霊も映すことができた。あの者はいったい何者だったのだろうか…。
【心霊】こちらを見つめる亡霊 最終章 ~シーマヌウタキ~【閲覧注意】
Amazonおすすめ『沖縄の怖い話』

浦添城跡の場所・アクセス・地図
浦添城跡の住所 | 〒901-2103 沖縄県浦添市仲間2丁目53−1 |
交通アクセス | 浦添警察署(警察署通り38号)近く、裏手 |
最寄りのバス停 | 前田西入口 |
最寄り駅 | 浦添前田駅 |
浦添城跡の地図(Googleマップ)
コメント